ドイツ在住 マルカの部屋

時にしょっぱい海外生活を楽しく乗り切るブログ

迷路のできない子ども

もうすぐ5歳になる我が息子はどうも勉強が苦手らしい。

 

就学前ではあるが、幼児向けドリルなどをやらせてみると、まぁ集中力がない。根気もない。ひらがなについて何度説明しても小さい「ゃ」「ゅ」「ょ」の概念を理解しないし、「10、11、13、15、18、20!」とカウントしている様子を見ると数も怪しい。こりゃあ学校の勉強で苦労するな…と母の私は戦々恐々である。

 

そんな息子と一緒に、こんな迷路に挑戦してみた。

 

「とのさまに おだんごを 3こ とどけるぞ。『→』から『★』まで すすもう」

正解はこうですよね。

 

しかし、息子はこう進むのである。。。

 

ちょい待てと。障害物を無視すな!!

 

私「でもさぁ、ここで牛さんが寝んねしてるで?ここは通られへんのちゃう?」

息子「なんで?起こして一緒に連れて行けばええやん

私「……」

 

私「ここにも荷車があるやろ。道が塞がってるよな?」

息子「せっかく牛を連れて来てんから、牛に引かせればええやん。荷車があれば、おだんごも載せて運べるから楽チンやん

私「……」

 

いや、息子、屁理屈を言っているわけではなく、心の底からそう考えている様子なんですよ…。

 

できない理由を探さない男がここに!!

 

素晴らしいと思いました。だって、たしかにそうよね。なぜ私は障害物のある場所を通ってはならないと考えたのか?それは、「迷路とはそういうもの」という、成長過程において身につけた知識に縛られているからだろう。

 

しかし、問題文には「障害物のある場所を通らないこと」などという但し書きがあるわけではない。また、息子は最短距離でゴールに達しており、そこにストーリー性まである。そう考えれば、息子の導き出した道順は、私の解答より優れているといえるのではないか。

 

この自由な発想に、私は、子どもという生き物が持つ可能性を感じずにいられなかった。教育というのはある意味、知識を授けることと引き換えに、子どもの柔軟な発想を奪う行為と言えるのかもしれない。

 

息子は模範解答を導ける子どもではないと思う。テストで高得点も取ってこないだろう。けれど、そんなことはまあどうでも良くて、それよりもこの愉快な発想力を伸ばすような教育がしたいと、強く思ったのであった。花マル!